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奥州二本松城に拠ったかつての奥州四管領の

奥州二本松城に拠ったかつての奥州四管領の一雄・畠山家の後裔であり、二本松家・二本松畠山家とも呼ばれる。源姓畠山氏の祖である足利義純の嫡流はこの二本松畠山家であったが、以後の動乱を経て衰退していく。観応の擾乱において畠山高国・畠山国氏父子が滅ぼされて以降は衰退し、戦国時代に至っては一国人にまで身を落として勢力を細々とつなぐのみとなり、歴代当主の多くの事跡どころか一部の当主の名前すら確定できない状況である。天正13年(1585年)、当時の当主・畠山義継が伊達家との抗争の中で討死し、まもなく国人領主としての二本松家も滅亡する。彼の子たちは蘆名家や佐竹家などに仕え、後に帰農したと伝わる。

代々、衛門督や衛門佐に任じられたため金吾家とも称された。本来の嫡流である奥州畠山家が冷遇されたのとは対照的に、庶流である畠山国清は知勇に優れていたため重用され、紀伊国および和泉国の守護となり、後に河内国の守護にも任命された。
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これが河内畠山家の始まりである。観応の擾乱においては国清は当初は直義派であったが、嫡流で尊氏派であった高国・国氏父子の敗北した後まもなく尊氏派に鞍替えし、没落した奥州畠山家に代わって畠山家の惣領格となる。鎌倉の足利基氏を補佐する関東執事(関東管領)として活躍し、さらに将軍足利義詮の執事細川清氏と共に仁木義長を追放して一時中央の政務を壟断したが、のちに義詮や基氏と対立し失脚し、河内畠山家は畠山国清の弟・畠山義深の系統によって受け継がれる。義深の子の畠山基国は当初は鎌倉公方に仕えていたが、足利義満の側近として京の幕府を中心に活動するようになり、管領家の細川京兆家と斯波武衛家が対立する中で第三勢力として台頭、能登国の守護職を獲得し、のちに畠山家の人物として初めての管領職に任命される。これ以降、河内畠山家は代々管領を輩出する家柄となった。畠山満家・畠山持国は管領として幕政において重きをなしたが、持国の後継を巡り畠山政長と畠山義就の子孫が互いに争い、応仁の乱後も両家が分裂し、内紛を続けた。政長流畠山家は官途の尾張守から尾州家、義就流畠山家は官途の上総介から総州家とそれぞれ称した。最終的に尾州家が優勢となるものの、細川京兆家や三好家の圧力を受け、さらに重臣の遊佐長教や木沢長政、安見宗房(直政)、遊佐信教らに歴代当主が次々と追放もしくは暗殺され、1576年、最後の当主・畠山高政が死去することで滅亡した。だが、高政の弟・政尚の子である畠山貞政が江戸幕府の高家の一人となって、その後も家系は続いた。

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2009年06月09日 12:02に投稿されたエントリーのページです。

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